[心と体はつながってる体験]NO.2瞑想の体験

僕が瞑想を習いだしたのは、25歳頃のこと、今から22年前だ。

その頃の僕は、とても内向的で今のように公然と人を前にして自分の考えや気持ち、体験を語ったり書いたりするなんて想像もつかなかった。
ただ、疑問に感じたあることを調べ探求していく傾向は今も変わらない。

僕の瞑想体験は、前に書いたように主に身体現象が主体だった。いろいろ症状が外に出るわりに体の中はとても気持ち良く何かが流れている感じがした。体の中が熱くなったりもした。

また集中が深まると、こんな体験もした。

丹田に集中し、その集中感が深まると、丹田の中に自分がいる、という感じだ。
その状態から眉間に注意を移すと、丹田と眉間が重なり合うという体験もした。


この「超感覚体験」がかなり面白くて、瞑想に夢中になった。


それからかなり後になって、野口整体を学ぶようになり、そこに「感覚移動の技法」というのがあるが、それを既に体験していたので、感覚を移動するなんて訳のわからないことも不思議とは思わなかった。

ところで、丹田の中に自分がいる感覚とは何を意味するのだろう?
それは、自分をまるごと受け容れることだ

しかし、その頃の僕がそのことを知っていたわけではないし、自分をまるごと受け容れられたわけでもない。むしろ不満の日々だった。
それでも、その感覚の世界に入ると何か安心する気分だった。

また、眉間に集中するとどうなるのかというと、自分を客観視できる。
自分のことを他人の目から見ているような、外から自分を見ている感覚だ。


もちろん、そのような気分になるだけであり、そのような人間になったわけではない。
そのような人間、つまり自分をまるごと受け容れるとか自分を客観視できる人間になるためには、瞑想を何年も続けるか、それと同じ意味合いを持つ行為を何年も続けなくてはならない。


つまりは、どんなことでも続けられなくては意味がないのだ。その辺の話でもうひとつ僕の体験を話そう。


その頃、食養もやっていた。いわゆる玄米菜食だ。
しかし、食養生をまじめにやろうとやるまいと体の状態は変わらず、それに食養という行為自体に楽しさを感じなかった。周りと違う物を食べなくてはならないことに不満を感じていた。
それでも自分に言い聞かせて続けたが、毎日が面白くない。

加えてその頃、神田のオフィス街で接骨院をやっていたが、来る患者は自分より元気で食養なんてやっていたら勤まらない人たちばかりを相手にしていた。
当然、彼らは僕が食養の話をしても耳を傾けなかった。

結果、僕も食養をやめてしまった。

今から思えば、この「逆説的体験」の意味がよくわかるが、その頃の僕は何がなんだかわからず、イライラした日々を過ごしていた。食養を続けられずに挫折した自分を責めてもいた。
このイライラと挫折感を瞑想で癒していた。

瞑想は僕にとって続けられるものだった。


この頃の体験から思うに、いくら体に良い事でも行為に面白さ、楽しさがなければ続かないし、面白くないことを続けるならなおさら、2~3ヶ月で結果が出なければ止めてしまうのは人間の自然の反応だ、ということ。
しかし、体によくない事でもそれが面白いと続けてしまう。
あるいはすぐに結果が出なくても、行為に面白さが感じられれば続くものだ。


人が病気になるのは、日々の生活に面白さ、楽しさがないからか、あるいは体によくない行為を面白く感じているからではないだろうか?
でも、体によくない事でも行為に楽しさを感じているなら、それほど深刻な病にはならないと思う。

人が体調を崩し深刻な病に至る原因は、日々の生活に楽しさ、面白さがないからではなかろうか?